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2004年12月23日

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 両親が何となく無宗教的だったために、私自身には信仰する宗教はない。だからといって、肩肘張るような信念を持っているわけではないので、神社や寺、あるいは、教会なぞに足を踏み入れて、然るべくお参りするのを厭うことはない。寧ろ、何かのついでに通りがかれば、あれこれと覗いてみるに吝かでない。
 家内はクリスチャンだったけれど、私と添うようになってからは、比較的融通の利く、言ってみれば、些か日本的な、緩やかな信仰者となっていた。当然、我が家には仏壇や祭壇のようなものはない。マリに話しかけたり、何となく手を合わせたい気持ちになったときには、写真立てに向かうことにしている。

 恵子くんは親類の手でしめやかに密葬されたそうである。高部家の墓に入るのだろうか。彼女が独りで死んでゆき、そのまま何日も何日もみつけられずにいたことを考えると、どうにも遣る瀬ない。死は誰もに個別に訪れるものであって、おてて繋いで死んでいくというようなことはない。仮に、全くの同時刻に同じ場所で重なるように死んだとしても、それぞれの死はそれぞれのもので、別々の死である。何がどうあろうとも、まさに、死ぬ時はひとりぼっち、なのである、本質的に。
 死後発見されるまで静かに書斎に横たわっていたことも、本当は悲しむべきことではないのかもしれない。何しろ、彼女自身は亡くなっていたわけで、そこには屈辱も無念も、如何なる感情もあるはずがないのではないか、と。
 そんなことを考える。頭ではそのように考えるのだが、感覚はそれを受け容れず、恵子くんが可哀想で仕方がない。思い浮かべるとついつい涙が零れ落ちる。七十を越したじじいの泣きっ面なんざ、見られたものではない。見られたものではないけれども、止めようがない。それに、そもそも誰に見られるわけでもないのである。零れるに任せよう。

 寒空に咲く黄色い花をみつけた。一つ一つの生命には死がつきまとうものではあるけれど、地球という生は途切れることなく、生き続けるのである。今日も、そして、恐らく、明日も。

投稿者 nasuhiko : 2004年12月23日 11:16

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